有田以前。
先日、多久市郷土資料館で開催されている、「高麗谷窯跡」展を観に行きました。
ご周知のとおり、有田焼開祖李参平は、有田へ来る前に多久の初代領主、多久安順に預けられ
焼き物を焼き始めました。その窯が「唐人古場窯」でしたが、なかなか思いどおりのが焼けず、
良い陶石を求め、最終地の有田泉山に至り(1616年)、この地で本格的な焼成を行ったとされています。
今回興味深かったのは、唐津焼を既に焼いていた同市内にある「高麗谷窯跡」で、磁器の一部や
窯道具に癒着した磁器片が発見され、数個展示されていたことでした。これは専門家の見解では、
李参平が関わり試験的に焼いたであろうとのこと。下記の画像がその一部ですが、確かに磁器でした。
一方、「唐人古場窯」跡では磁器が焼かれた形跡はなかったとのことでした。
[李参平の動きも推量可、多久家資料]
先日行われた、 九州陶磁文化館名誉顧問の大橋康二氏の講演は直接聞けなかったんですが、
郷土資料館の方にお聞きした範囲では、以下の流れになるようです。
多久、「高麗谷窯」(1590年代末~1610年代頃)では、李参平を頭とする朝鮮陶工集団が多久に来る前に
唐津の岸岳系の流れをくむ唐津焼を焼いていましたが、やって来た李参平集団は「唐人古場窯」(1600年~1610年頃)を開き、陶器を中心に焼き始める。その後「高麗谷窯」で、何とか磁器を焼こうとしますが、試し焼きに成功したとき、おそらく「唐人古場窯」は廃窯していた。そして、そのその技術は高度で、「官窯クラスの磁器技術をもった陶工がいた可能性がある」(大橋氏著述)とのこと。
その後、李参平一行は伊万里の藤川内の「鞍壺窯」でも焼成を試行し、山を越え有田の中西部小溝地区へと入り、小溝や天神森等でも磁器焼成を続けて行った(同氏著述)。(泉山磁石場が李参平により発見される以前に最初期の磁器がこの有田中西部地区で焼成され、試行錯誤の後、近くの「山辺田窯」で大きな発展を見たのではないかと推測されます。)
それにしても、「高麗谷窯」では古田織部の影響を受けた茶陶から、高麗茶碗写し等も製作し(同氏著述)、それらにも本当に驚かされましたが、何よりも有田に馴染み深い李参平の足跡がより鮮明に分かる気がして、専門家の方の研究というのは凄いものだとつくづく感じ入った次第でした。
(山)