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有田の時間

1813年(文化10年)9月21日、伊能測量隊有田へ。

2021年06月16日

有田観光協会 at 16:05  | Comments(0)
 
 

 先の日曜日。
「新型コロナウイルス感染症」退散祈願『伊能ウォーク』、なる催しに行って来ました。
 2年ほど前から有田の観光ガイドのメンバーの一員になられました、『塚崎・唐津往還を歩く会』の代表、馬場良平氏が企画されたウォーキングです。通常は一日かけて歩く会ですが、コロナ禍のなか午前中だけに絞り、「伊能図完成200年」記念のイベントとして連続三か月実施されているものの最後の回。やっと私も参加出来ました。各地の地理来歴に関しての馬場氏の見識の広さには毎回頭が下がりますが、今回も丁寧、詳細な資料を用意頂いていました。コロナ禍前にも何回か歩かせてもらってますが、一年半のブランクもあり不安もありましたが、何とかOKでした、という感じでした。

 今回の出発地は、肥前竜王駅(杵島郡白石町)から「稲佐神社」までの往復8キロメートルの道のり。神社は平安時代初めに奉祀され、肥前風土記にもある杵島山の神を祀った神聖なところ。伊能忠敬測量の測量日記にも、1812年(文化9年)10月24日にこの地に至り、「稲佐神社 祭神 百済国聖名王 九月十九日祭礼 白石郷鎮守」とあるようです。
 神社に着き、そこで宮司さんにコロナウイルス感染退散祈願をして頂きました。本年は伊能忠敬の伊能図が完成して200年の記念の年。神社へ向かって歩き、そこで感染祈願をして頂くという今回の企画。かろうじて参加出来たのは本当によかったと思いました。ただ、全区間、マスク着用の徒歩は苦しかった。皆さま、本当にお疲れさまでした!!。

 
 
                     [県外からも三々五々集まられて]
 
  [リーダー、馬場氏(右)の信頼は絶大です]


[コロナ感染症退散祈願中です]



 

 ところで、その伊能測量隊。我が有田へもやって来ています。その日は、


     1813年(文化10年)9月21日


 『伊能忠敬測量日記』には、次のようにあります。

 
 「九月二十一日 晴天、六つ時後彼杵郡大村領波佐見出立、・・・字岩峠、左に溜池三町斗、野陣小休、佐嘉領松浦郡外尾村、右に溜池周三町斗、右に番所、枝鳥屋分、枝大野分、有田川渡十五間、武雄道、伊万里道追分 外 印を残、一里二十二町五十一間、此より伊万里道へ繋ぐに行、昼休百姓善三郎、字原、字山、此所陶器製、即有田焼なり。有田川巾二十四間。曲川村字南河原、字乱橋、字黒郷、去申九月十四日残 郷 印に繋二十九町四十八間、惣測二里十六町三十九間。それより岩谷河内村へ八ツ時頃に着、止宿焼物屋八十右衛門。此家は大家にて家作よし。」「同二十二日 晴天、六ツ時後岩谷河内村出立。・・・」


 ちょっと長くなりましたが、有田について書かれた箇所を記しました。


 有田駅南方にあります、武雄道、伊万里道追分(分かれ道)には、以前には画像の小さな石碑が残っていましたが、売地でしたので現在では残っていないようです(画像は以前に残されていた画像)。伊能測量隊が波佐見から来てこの地に至った道は、波佐見道、伊万里道、そして武雄道の追分(別れ道)で、史跡として残したいものだと思いました。
 
 伊能測量隊が有田の地に立った1813年(文化10年)9月21日から15年後の1828年(文政11年)8月9日、有田は未曽有の大火、「文政の大火」で尊い命と人家の85%を失うこととなります。
 けれども、その後の懸命な努力で現在の町並みが形成されたのはご周知のとおりです。


                                              

 
          [波佐見からの道」
 

          [伊万里への道]




(測量日記資料一部、写真等は馬場氏より提供頂きました。)






                                         (山)