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有田の時間

陶山神社Ⅳ

2013年01月27日

有田観光協会 at 15:10  | Comments(0)
 

 
  さてさて、ただ今、有田の中心的神社、『陶山神社』に来ておりますが・・(笑)、先に触れましたように、ここの神社の大きな特徴に、有田各地等から奉献された「焼物」がありますが、実はこの他に、境内の中に多くの「石碑(記念碑、顕彰碑)」があることが挙げられます。『陶山神社』のことを別名、「野外の歴史資料館とも呼ばれたりする所以(ゆえん)でもあるようです。


 
 社務所がある境内の広場敷地には、地元有田の人々にとってはまさに恩人とも云うべき人々の、そうそうたる石碑が並んでいます。
ただこれはある意味、県外からのお客さまにとっては‘ローカルの偉人’といった感じで受け取られがちでもあり、ガイドとしてご案内する場合には、よほど時間にゆとりがない限りなかなか触れることがなく残念なことではありますが、実はローカルどころか、それをとうに超越した素晴らしい先人もおられますので、ここで少し触れさせて頂きたいと思います。



               [史跡マップ:陶山神社周辺]



    石碑名と人物の略歴を簡単に列記してみますと・・・(尊称略)



・『深川六助翁之像』:「深川六助」・・・       有田陶器市の発案者。「陶祖李参平之碑」
                               建立を提唱。若き日、江越礼太の推挙で森有礼文相の書生。

・ 『元帥・海軍大将 古賀峯一之碑』・・       連合艦隊司令長官。山本五十六長官の後を継ぎ戦艦「武蔵」に乗艦。                 
                               生家の項 [N.19] で若干記述。       

・ 『深川君之碑』:「八代 深川栄左衛門」・・    明治開花期の有田皿山の指導者。       
                               明治8年(1875)同志と合本組織
                               「香蘭社」を設立。フィラデルフィア、
                               パリ万博等で一等金牌をはじめ、計60回もの入賞を果たし、有田焼を世界に              
                               認知さす。題字、大隈重信。

・ 『江越如心之碑』:「江越礼太」  ・・      わが国実業教育の草分け。
                              わが国初の陶磁器工芸学校
                              『勉脩学舎』を開校。
                              これは後に有田徒弟学校等を経て、
                              現在の有田工業高校へ連なる。
 

                  [深川六助翁之像]  

             [元帥・海軍大将 古賀峯一之碑]


 
  この中で、特に私は「江越礼太(如心」に注目しています。彼は文政10年(1827年)生まれの旧小城藩士で、江戸に出て昌平坂学問所(江戸幕府の直轄学問所)で学び、明治5年、白川小学校の責任者(のちに校長)として迎えられ、そして明治14年(1881年)の夏、わが国初の陶磁器工芸学校、『勉脩学舎(べんしゅうがくしゃ)』を開校しました。

  江戸幕府が終焉し、明治になって「学制」が取り入れられたのが、明治5年(1872年)。当然といっては何ですが、明治初めのこの期において、職業教育についての意識、構想が、果たしてどれほど明治政府内であったでしょうか、否、具体的にはほとんどなきに等しかったんじゃないかと思われます。
 
  公(おおやけ)には、明治政府の殖産興業政策の一環として、同年の明治14年(1881年)11月1日に授業を開始した「東京職工学校」が、日本の工業教育に指導的役割を果たした、わが国最初の工業教育機関とされているようです。が、何とそれより同年の数ヶ月前、既にここ有田で、江越礼太によって陶磁専門の工芸学校の授業が開始されていたのです。
 


                    [ 江越如心之碑 ]

 [有栖川熾仁親王の扁額:有田工業高校所蔵]


  かつて、陶工を育てる場合には、「家伝」や「秘伝」というふうなかたちでその技法がその家に継承されて来ましたが、様々な障害があったことは予想されますが、何とここに彼によって、公的に技術を公開して伝えるという教育機関が全国に先駆けて作られたわけで、まァこれは本当にスゴイことだと思われます。

  『勉脩学舎』設立にかかわる全24条に規定されている、当時の設立の趣意、目的、或いは就学規則等を見てみますと、具体的にきっちりと記されていて素晴らしく、その先見性に驚かされます。本当に有田が誇っていい人だと私は思います。
 こののち、わが国の実業教育の制度が法的に整ったのが、明治27年(1894年)に文部省が「実業補修学校」の規定を制定、その5年後の明治32年(1899年)、「実業学校校令」を公布、とされています。そして、同じ焼物関連では、『勉脩学舎』設立の16年後の明治30年(1897年)、愛知県瀬戸で『瀬戸陶器学校』が設立されたのでした。


 ・・・、ウ~ン、つい力が入って、かなり固い文面になってしまいましたねネ・・(笑)。
 それにしても、この『勉脩学舎』という良い響きの学校名、例えば県立高校の『致遠館』みたいにそのまま残されてもよかったのに・・・とフト思いましたが、まァこれは余計なことではありますが・。



 あゝそれと、もう一人忘れていました。!!



・『 成松信久碑 』       ・・・              江戸期の名代官、成松萬兵衛信久。文政12年(1815年)~文政8年                               
                                 (1825年)有田に赴任。勤倹剛直で仁政を行い、物事を公平に採決。存                                                
                                 命中に神に祀られた名代官。陶山神社裏公園に建立。        
 


                      [ 成松信久碑 ]
 

 代官と聞けば、「・・おぬしも悪いよのう~ 」「代官さまほどでは~ 」とすぐ連想してしまうのは、何かの見過ぎからでしょうが・・(笑)、まァ、かつて有田には、何と、生きている間に有田の人々から神として祀られた人がいたんですね~ェ。 
 任期を終え佐賀に帰るときには、有田の人々がその徳を慕って「成松社」という石碑を建てたが、その後それが材質粗悪のため風化、明治23年に再建された、とあります。

 松本源次氏によれば、成松代官の更なる業績として、次のことも述べられています(「有田の歴史物語」)。 
  〇有田皿山住民の闘争心の強い民心民俗を、協調性に富んだ温順さに変えたこと。
  〇各山に品種別生産性を断行して、分業専門化による陶技の向上を計ったこと。

                                                     ウ~ン、なるほど、なるほど。


                                                           山ちゃんズ、山口♂happy01でした。




[N.30]

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陶山神社Ⅲ

2013年01月16日

有田観光協会 at 12:08  | Comments(0)
 


 

 ハイ、やっと境内へ、第一歩を踏み入れることとなりました・・・(笑)。
 
 
 さて、特急が行きかう境内の階段を登りますとすぐに、二つの鳥居が見えて来ます。手前の古い鳥居には 『八幡社』 とあり、奥の新しいものには 『陶山神社』 とあります。
 
 この名前の違いは、明治を境に変更してきたその呼び名の推移を示しているようです。すなわち、この神社は江戸期頃までは「有田皿山宗廟八幡宮(ありたさらやま そうびょうはちまんぐう)と称され、明治以降に現在の名称で呼ばれたようですが、ただ地元では、“八幡さん”と呼んでる方も多いようですネ。

 泉山の磁石場を発見した李参平が亡くなった明暦元年(1655年)、多くの有田の人々はその死を悲しみ、ぜひ神として祀ることを強く望んで、藩祖の鍋島直茂公と共に伊万里の八幡宮の分霊を受け、彼の死から3年後の万治元年(1658年)、この神社の創建をみたといいます。これより李参平は、陶祖李参平、李参平公として神として祀られることになったのでした。



 
 
 鳥居をくぐると、すぐに古い石段が前方に見えて来ます。社務所を右下方に見ながら石段を70段ほど登りますと神社の本殿に着きます。
 ただ実はこの石段、かなり急なんです!!(笑)。少し遠回りですが、ゆっくり登るのを希望される場合は、社務所右方向からゆっくり登って行く道があります。( ・・・余談ですが、何とココでは、お守りにも‘焼物’が使われてます・(笑))

 

 ところで、この「陶山神社」の中で、特に珍しくそして有名なものは、何といっても

 『 磁器で作られている鳥居 』 です。

それはこの正面の石段を登ったところにしっかと建っています。



  
 明治21年製造の、いかにも磁器のまち、やきもののまちを象徴する歴史的建造物の一つといえます(国登録有形文化財)。
 そして、鳥居をくぐったその先に「陶山神社」の本殿があります。



 
 さらに、なかなか気づかないんですが、奥の本殿には何と、
江戸末期、文化3年(1846年)製造の『磁器製の欄干』
も見ることが出来ます。
 その染付けの色の鮮やかさ、形のシャープさは、遠く目からでもその技術の高さが感じ取れるようです。


 
 
 本殿前の境内はそれほど広くはありません。その場所を所狭しと取囲むように、さきの磁器製の鳥居や同じく磁器製の狛犬、大きな水瓶(みずがめ)等が据え置かれています。
 
 


 実はさきの磁器製欄干もそうですが、これら野外の磁器製のものは、そのほとんどが有田の各地区、或いは窯元などから、この神社に奉納されたものです。もちろん、野外だけではありません。本殿内部にも窯元、個人はじめ各方面からの焼物の奉納があり、この神社の大きな特徴をなしてるように思います。
 
 すなわち、その名のとおり、有田焼の陶祖を祀った 『 陶山神社 』 は、焼物に囲まれた神社といえるように思います。

                                                           山ちゃんズ、山口♂happy01でした。




[N.29]

陶山神社Ⅱ

2013年01月08日

有田観光協会 at 11:58  | Comments(0)
 
 年末年始でたくさんの方が行き交った有田駅構内も、どうやらそのピークを過ぎ、普段の駅の情景を取り戻したように思います。
 明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。


 
 さて、前回に続きまして『陶山神社』のご案内をさせて頂きます。
神社境内を東西に行き交うJR佐世保線の踏切へ上がる階段下の左手前に、「陶山神社」と彫られた大きな石柱が立っています。



  [海軍大将伯爵 樺山資紀書の石柱]

 
 3年ほど前でしたか、実はこの石柱に記載されてる文字、
“海軍大将伯爵 樺山資紀書”、どうも気になって仕方がありません。ウ~ン、どこかで聞いたことがあるような、見たことあるような・・・(笑)と思いましたが、一枚の写真と共にすぐに思い出しました。
実はその方、私が大好きな次の写真の女の子を、膝の上にのせ‘抱っこ’している軍人さんの名前なのでした・・・(笑)。


      [新潮文庫『白州正子自伝』より]

 
 女の子の名前は白州正子、ご周知のとおり有名な随筆家であると共に稀代の目利き、また、吉田茂のブレーンで、マッカーサーを叱りつけた唯一の日本人として名を馳せた“風の男”白州次郎、その奥さまです。そしてその軍人さんは、正子の父方のおじいちゃんにあたる鹿児島県出身、樺山資紀(かばやま すけのり)です。


                            [白州次郎と白州正子]

 
 どういう関係でここに揮毫されているのか・・・、古賀峯一海軍提督との関係だろう等と勝手に思い込んで(実際は年代が異なりますので、あり得ないようなのですが・・)キチンと確認すらしてないものですので、恥ずかしながらここでは不明です。分かり次第補筆させて頂く予定ですのでご了承ください。


 余談ですが、おじいちゃんに抱っこされてるその写真、新潮文庫の『白州正子自伝』の表紙を飾ってるものですが、正子お穣ちゃん、あんまり機嫌が良さそうには写っておりません。そこのところ、自伝にはこうあります。

 「・・・祖父はそっと抱いたつもりでも力が強いので息苦しく、おまけに沢山つけた勲章のとげとげが背中にささって痛かった。不機嫌な顔つきをしているのは一生懸命我慢していたからである。」

       
 
    ウ~ン、なかなか神社本殿には近づけませんねェ~。やっぱり神社は奥が深い・・・(笑)。

                                  
                                                            山ちゃんズ、山口♂happy01でした。




[N.28]