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有田の時間

Viva!! 有田焼 ⑤

2025年01月10日

有田観光協会 at 14:53  | Comments(0)
 
  

 第8代将軍徳川吉宗による『享保の改革』は、予想以上に有田の赤絵町の絵付けにも影響を与えたと推測する。改革の主眼は、幕府の財政立て直しのための質素倹約の実施だった。藩窯の伊万里大川内山で例年献上として焼成されていた云わゆる「鍋島」は、赤絵町での色絵付により、後世「色鍋島」と呼ばれる色絵磁器の最高峰として知られているが、この最も上質の盛期鍋島は、云わゆる、"色絵は贅沢品"とみなされ、その後、染付と青磁の作品に限られてくるようになる。延宝から元禄、ぎりぎり改革が出された1722年(享保7年)迄頃が盛期といえるだろうか。そしてそれは、民間の商品にもその影響が見て取れるように思われる。
 
 次の民間商品等は、色絵ではあるが、色を少なく抑えた感がある同時期の商品と推測される。まァ、とは云っても、その後の田沼時代に至ってからはそれほどの影響は感じられないようにも思われ、新たな薄緑色などの色彩もその後には使用されている。すなわち、民間が求める色絵商品は常に生産されているようだ。その後は、19世紀に入り、瀬戸などの地域でも磁器が焼成されるようになると、販売競争の影響で大量生産も加わり、相対的にやや質の低下を見るようにも思えるが、それは時の流れに応じて有田の焼物が変化していった証しでもあり、興味深い。

  
 

Viva!! 有田焼 ⑤Viva!! 有田焼 ⑤
[享保期頃/18c初]


 


Viva!! 有田焼 ⑤
 [寛政期頃/18c後]



 
 幕府への献上品、有力大名などへの贈答品としての鍋島作品だけは幕府終焉まで多色が避けられていて、画像のように若干赤絵が加わるだけのようである。


 

Viva!! 有田焼 ⑤
  [以降、江戸末期鍋島]

Viva!! 有田焼 ⑤


Viva!! 有田焼 ⑤


 
 
 それにしても、さきの享保の質素倹約奨励がもし施行されてなかったら、どうだったろうかと考えることがある。或いは、現存している以上の素晴らしい色鍋島を目に出来たかも知れない。それを思うと、幕末までの百数十年間の制約、制限が残念にも思えてくる。が、それも歴史の流れから如何ともし難いのは自明のことである。
 
 それでは、もし残された「鍋島」の中から、染付、色絵、それぞれ一点を選ぶとしたら皆さんは何を選ばれるだろうか?。
私は染付では次の九陶所蔵の『染付鷺文三足付皿』を挙げたい。ムラのないそのダミとデザインセンス、抜群以外何ものでもない。また、色絵からはMOA美術館所蔵の『色絵桃文皿 尺皿』を選ぶ。それを初めて目にしたときフトもらした自らのため息を私は生涯忘れない。いったいどうやってあの桃の表面の質感を出せたのか、本当に’感動’の一言だった。双方とも国の重要文化財として認定されているが、これら二点とも個人的には将来、ぜひ「国宝」へ認定頂きたい作品である。まだ肥前のやきものには国宝がない。<国宝希望2.3>



Viva!! 有田焼 ⑤




 魅力ある有田焼について、江戸期を中心にざっくり見てきたが、染付から色絵が始まり、時代々の求めに応じ、かたちを変えながら400年間続いて来たのが有田焼である。ライフスタイルに適した様々な有田焼が現在産み出されている。今後、益々変化に富む磁器にきっと出会えるに違いない。大いなる期待をもって見守って行きたいものである。(終)





                                                    (山)









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