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有田の時間

『泉山の大イチョウ』から、西へ下る

2012年10月28日

有田観光協会 at 12:52  | Comments(0)
  さきの『泉山の大イチョウ』は、実は「弁財天神社」という神社の境内にありますが、この境内近くで、私にはどうしても忘れられないお店があります。

  一般に有田のおみやげと云えば、有田名物の“ごどうふ”があげられますが、もう一つの、あまり表に出てない名物、知る人ぞ知る名物、“陶助おこし”というお菓子を作っておられるお店が、このごく近くにあるんですョ(前田陶助堂)。
 大正から昭和にかけ、かつて有田にもご当地名物の菓子類が幾つかあったようですが、残念ながら今に残っているのはこの“陶助おこし”だけのようです。誕生以来、百数十年の歴史を踏んでいるようで、何しろ衆知されてます、‘おこしの固さ’の概念を覆す、‘ビックリのやわらかさ’にその大きな特徴があります。甘党でもある私は大好きで、県外へのおみやげでは、随分お世話になっております。有田の三様式を描いた包装紙のデザインも、有田らしくて私の好みでもあります・・(笑)。



 『泉山の大イチョウ』の場所から表通りに出て、少し西方へ下って行きますと、左手に何やら御影石に金文字で記された案内の石碑が見えて来ます。石碑には次のように記されています。



 『元帥海軍大将 古賀峯一提督 生誕の地』



 この方をご存知の人はいらっしゃるでしょうか!?太平洋戦争に関連して、「海軍乙事件」と聞けば、あヽ、あれだナとお分かりの方は、この方面にかなり精通された方といえるのでは・・と思います。以前、ガイドをさせて頂き、古賀峯一氏のことに触れたとき、まさにこの反応がすぐに返って来て、全国にはやっぱり詳しい方がいるもんだなァと、付け焼刃の自らの知識が恥ずかしくなったものでした・・(笑)。


 浅学を顧みずあらためて簡単に述べますと、次のごとくでしょうか。
「戦艦大和」に乗船の連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将の戦死のあとを受け、同じく「戦艦武蔵」に乗船して連合艦隊司令長官に就いたのが有田出身の古賀大将というわけで、同じく殉職されることとなります。前者の事件を「海軍甲事件」、後者を「海軍乙事件」と当時呼ばれていたようです。古賀氏のお父さんの勤務の関係で、今に残るこの住居にて誕生されたようです。
 一般に、山本長官が先の大戦にもともと反対だったことはよく知られておりますが、同じく古賀長官も参戦を望んでおられなかったようで、地元出身を抜きにしても個人的に親しみを感じます。詳しくは、『おんなの有田皿山さんぽ史』でのご案内もありますので、よろしかったらご参考に。

 
 『泉山の磁石場』周辺からこの『古賀提督生誕の地』にかけては坂になっていて、段々と下方へ下って行くこととなり、地元では「碗坂通り」と呼ばれ親しまれておりますが、そこをぬけますと、トンバイ塀が集中している、云わゆる「トンバイ塀通り」へと出ることになります。そして、この通りから西の方へ続く本通り一帯は、国の伝統的建造物として指定を受けている建物類となります。
 なお、トンバイとは、特に江戸期において登り窯を築くのに使われたレンガのことで、経年劣化したそのレンガや、使い捨ての窯の道具等を赤土で塗り固め、それで塀を築いたものをトンバイ塀と呼んで、特に本通りに交差した場所や、本通りと平行している裏通り等によく見かけられます。
 その伝統的建造物群の中でも、その建物の並びがちょっと珍しいモノが、次の画像のものです。


          [右から順に、松本家、服部家、森永家]

 それは上幸平の交差点のところにあり、右側から、明治・大正・昭和の家並みがうまく並んでいて、それぞれの時代の特徴が分かり、興味深いものとなっているようです。
  
                                                       
                                                            山ちゃんズ、山口♂happy01でした。




[N.19]








泉山の大イチョウ

2012年10月18日

有田観光協会 at 16:44  | Comments(0)
  こんにちは。旅の途中のガイドご案内、山ちゃんズの山口♂happy01です。

 
  さて、日本磁器発祥の聖地『有田泉山磁石場』は、隣を武雄市と接するように東端に位置しておりますので、これから向かいます有田の観光は、その細長くくねった形状ゆえに“有田千軒、うなぎの寝床“と称されます東西に長い有田の町の東から、順次西へ向かって進むこととなります。

 
 
  やや高台にあります磁石場から西の方角へ少し下って行きますと、右手前方向に高い一本の木が見えてまいります。そうです、それが大正15年に国指定の天然記念物となっている泉山の大イチョウです。高さ約40メートル、樹齢約1000年という巨大な古木です。
  この大イチョウでよく語られるのが、ココの案内板にもありますように、江戸末、文政の大火(文政11年、1828年)による延焼を免れた、大イチョウに隣接した池田家(池田伝平窯)の‘言伝え’があります。すなわち、大イチョウは火を嫌い、大火時に風をおこして火を寄せ付けず、家を守ったというのです。何ともスゴイ、大イチョウの超絶パワーです。樹齢1000年ともなりますと(その当時は800年ですか・・・)、とても人間の力の及ぶものじゃないに違いありませんネ。(まァ、イチョウの葉が火に強いという、科学的な根拠もあるようにも聞いておりますが・・笑)


              [口屋番所跡と大イチョウ]
  ところで、有田災害史に残るこの「文政の大火」。有田千軒の内、その中の地区である、岩谷川内40軒、白川100軒、泉山の年木谷10軒ほどを残した、残りの850軒すべてが跡形もなく焼け出されたといいます。実はこの大火は、前代未聞という強大な台風によって岩谷川内という地区から出火したもので、同じく台風の豪雨のため河川は氾濫し洪水となり、有田内山地区(中心地区)だけで焼死、溺死した人が50人を超えていたといわれています。佐賀藩全体でのこの台風による焼失家屋が1647軒との記録があるようで、何と有田での数は、その半数以上にあたることとなり、有田での被害がいかに大きかったかが分かるように思います。             [文政の大火の数値等は、松本源次著「有田の歴史物語」より。]

 

 
            [大イチョウと池田家]

  余談ですが、私たちガイドは、有田へのお客様に町内の伝統的建造物のご紹介をさせて頂くときに、これらの建物の建立は江戸末期から明治、大正、昭和の建立とお伝えしています。つまり、どんなに古い建立であっても、池田伝平窯等のほんの一部を除き1828年の文政11年を遡った建物はないわけですので、もしこの大火がなかったら、もっともっと古い建物も残存してた可能性もあるわけで、いつも残念だなァ~と思います。
  けれども逆に、この大火の効用もあったようです。この大火により家も職も失った工人さんたちが、有田の周辺、波佐見、三河内地区へ離散し、云わゆる有田の中心の内山地区からの“内山崩れ”が生じて、今日の大肥前窯業圏を形成する動機にもなったと、有田の史家、中島浩氣氏の見解もあるようです。或いは更には、他領でも磁器の窯が築かれ始めたので、九州の諸窯、四国の砥部、尾張の瀬戸へと広がっていったとの見方もあります・・。
 ウ~ン、何といいますか、どちらがどうだとも云えず、いろいろ考えさせられますね~ェ(笑)。
         (文政の大火につきましては、有田ではいろんな物語が残っているようですが、それはまた別の機会にでも・・)

 
 [昭和初め頃の大イチョウ(「おんなの有田皿山さんぽ史」より。)]
  
  ところで、この大イチョウが色づくのは、11月の下旬(画像で『はまだ青さが残ってますねェ~)、有田ではちょうど秋の陶磁器まつり(本年は22日~26日実施予定)』真最中の頃です。下に落ちた黄色いイチョウの葉が重なって、黄色いじゅうたんのようになった上を歩くのは、何だか贅沢感を味わえますョ~、以前私も歩いてみましたが・・気持ちよかったデス・・。 笑)

 
                  [皿山代官の「覚」立て札]
  実はここのイチョウの巨木がある手前のところは、江戸期に泉山の『口屋番所』の跡となっていて、その内の『上(かみ)の番所』があったところです。東西に長い有田には、当時、『上の番所』と、ずっと西方に『下(しも)の番所』がありました。そこは代官所の支配下にあり、主に人(技術)と物(磁石と製品)の出入りを厳重に監視していたようです。
 今は当時の雰囲気を偲ぶ風情で記された「覚」の立て札と番所跡にそれを感じることが出来ます。




[N.18]

レンタサイクル

2012年10月10日

有田観光協会 at 14:43  | Comments(0)

こんにちはsun
今日の有田は爽やかな秋晴れです。久しぶりの登場shine山ちゃんズの山崎♀ですribbon
天高く馬肥ゆる秋、実りの秋kinoko食べ物がおいしい秋ですねheart02
ちなみに有田は、やきものばかりではないんですよdanger
新米、芋、ぶどう、なし、みかんetcいろんなものが採れます。
有田の農産物も食べてみてくださいrestaurant

ところで天気の良い日は、レンタサイクルでの散策がお勧めですよbicycle
flair今日はレンタサイクルのご案内をします。

レンタサイクルには、普通自転車電動アシスト自転車があります。

普通自転車は   有田駅案内所、上有田駅前(原田商店)、有田館
            ろくろ座、有田観光情報センター、古田商店(やきもの散歩道) 6ヶ所
アシスト自転車は 有田駅案内所、有田館、有田観光情報センター 3ヶ所 各2台

貸出時間は    午前9:00~午後5:00

レンタル料 普通自転車   1日300円
      アシスト自転車   1日500円+保証料1000円(返却時返金します。)

返却場所  普通自転車   どちらの施設でも返却可能です。
      アシスト自転車   貸出施設へ返却ください。

電動アシスト自転車はスッゴク楽ですよnote
「電動なんて乗ったことないから・・・」と躊躇いながら借りたお客様も
「楽だったぁ~~」と帰ってこられます。台数も少ないのだ早い者勝ちですよォ~~danger
事前予約もできますので有田観光情報センター(0955-43-2121)までお問い合わせ下さい。
bicycleお待ちしておりま~~すheart04 くれぐれも安全運転でお願いしま~~すdanger

『泉山磁石場 』-日本磁器発祥の聖地-

2012年10月07日

有田観光協会 at 14:06  | Comments(0)
 左に『陶工の碑』、そして前方に『李参平発見之磁礦地』の石碑が目に留まるやいなや、『泉山磁石場』はもう既に前方より迫って来ます。


               [磁礦地の石碑]

 ‘百聞は一見にしかず’との言葉を、もし有田で使うとしましたらば、私はこの場所でこそ最もふさわしい言葉じゃないかナ~と思います。


                        [泉 山 磁 石 場]



 
  もしここが初めて目にされる光景だとしたら、おそらくかなりの衝撃があるんじゃないか、想像以上の壮観な景色にきっと皆さん驚かれるんじゃないかナと思います。
思わず「うわーっ」との声が、ココ『泉山磁石場』で響きあう‘合言葉’です・・(笑)。



  『李参平発見之磁礦地』の石碑にみるように、江戸時代初め、朝鮮人陶工の李参平(邦名・金ヶ江三兵衛)がこの磁石場を発見したことで、まさにココから400年にわたる有田焼の輝かしい歴史が始まりました。ここから発掘された石で焼かれた大皿が、大壷が、華やかな彩りを得て、遠く欧州の宮殿をも飾りました。またある時は将軍、大名へと、ある時は天皇、宮中へと、そして日本全国各地へと運ばれて行きました。
 すべてここから始まったんだ、あの山の、あのてっぺんの大岩は、その長い間の歴史の推移をズ~ッと見てきてたんだなァと考えたら、本当に不思議な感慨にとらわれます。 
 それにしても、よくぞ一つの山をここまで掘ったものだと本当に驚かされます。
回りの木々を含めたあの景観は、まさに書画によくみる山水そのものじゃないか・・・などと、時々私は思います。


  ところで、いったい李参平という人はどんな人!?どうして日本にやって来たの・・!?
彼は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に佐賀藩の鍋島直茂が日本へ連れ帰った朝鮮陶工一族の一人でした。焼きものに適した藩内の地を随分と探し回り、やっとのことで、この有田泉山の地を見つけたといいます。もし彼がこの時期にこの地を見つけていなかったとしたら、おそらく日本の焼き物の歴史は大きく変わったんじゃないかと思います。


               [初代・野口勝山作 李参平像]

  
  この磁石場から右手の山を少し登ったところに『石場神社』があり、そこにあるのが、『李参平像』です。白衣をまとって静かに座している年を重ねたその老人の像は、いかにも陶祖の名にふさわしい静かな威厳をかもし出していて、「あヽ、李参平さんだ」と自然に思えてくるから不思議です。12~3分ほど時間にゆとりがあれば、磁石場と共にご覧頂たいスポットです。


            [資料館へは、左の方から登ります。]

 
  また、この磁石場の東に隣接した場所に、『有田町歴史民俗資料館』があります。ここには、焼き物の歴史にまつわる様々な資料等が展示されています。登り窯の縮尺模型、名代札や窯の道具、発掘陶片の資料や古文書等、ご興味をお持ちの方はぜひご覧になることをお薦めいたします。入館料は大人100円、大高生50円、小中生30円です。HMはコチラ

  
  これほど歴史深い史跡ではありますが、この磁石場は有田の人にとって、残念ながら今はそれほど身近な場所とは云えなくなってきているように思います。より取扱いが容易な磁石が県外から入ってきているためでもありますが、まァそれはある程度やむ得ない事かもしれません。
 ただそれでも、ここ『泉山磁石場』が有田の源泉地であることに何ら変わりありません。いやそれにとどまらず、日本の磁器の発祥地であり故郷でもあるわけで、故にこそ「国の史跡」となってもいるわけです。

 
  ここ磁石場は岩石の崩落等もあるため、近寄ることは現在禁止されています。
ただ、昨年の「先人陶工感謝祭」でしたか、期日限定で発掘場所間近まで入るのを許可されたことがあり、私もヘルメットを被り近寄ったことがありますが、遠くに見えてた穴や崩落した岩が近づくと、その巨大さに本当に驚かされたものです。
 磁石の埋蔵量はまだかなりあるとも聞きますので、保存のみならず計画的な有効利用が出来たらとも思いますし、石場というものを間近に感じることが少なくなっている昨今だけに、貴重な観光史跡としての一層の活用を個人的には期待したいところです。

  昨年も現地で上映されていましたが、陶都青年会議所が製作された泉山磁石場のこの映像を観るたびに、往年の発掘に携わってた方たちの顔と顔が、その笑顔が何と輝いていることか・・・これを現在に繋げたいと、つくづく思いますネ。歴史民俗資料館の解説を頂いているのはコチラ。


 さてさて、それでは、


 『有田への旅』 -ヒントその3-


 有田観光史跡の中で、何はともあれ最初に訪れたい聖地、それが
『泉山磁石場』である。
                                           
                  
                                                             山ちゃんズ、山口♂happy01でした。



[N.17]