『泉山の大イチョウ』から、西へ下る
さきの『泉山の大イチョウ』は、実は「弁財天神社」という神社の境内にありますが、この境内近くで、私にはどうしても忘れられないお店があります。
一般に有田のおみやげと云えば、有田名物の“ごどうふ”があげられますが、もう一つの、あまり表に出てない名物、知る人ぞ知る名物、“陶助おこし”というお菓子を作っておられるお店が、このごく近くにあるんですョ(前田陶助堂)。
大正から昭和にかけ、かつて有田にもご当地名物の菓子類が幾つかあったようですが、残念ながら今に残っているのはこの“陶助おこし”だけのようです。誕生以来、百数十年の歴史を踏んでいるようで、何しろ衆知されてます、‘おこしの固さ’の概念を覆す、‘ビックリのやわらかさ’にその大きな特徴があります。甘党でもある私は大好きで、県外へのおみやげでは、随分お世話になっております。有田の三様式を描いた包装紙のデザインも、有田らしくて私の好みでもあります・・(笑)。

『泉山の大イチョウ』の場所から表通りに出て、少し西方へ下って行きますと、左手に何やら御影石に金文字で記された案内の石碑が見えて来ます。石碑には次のように記されています。

『元帥海軍大将 古賀峯一提督 生誕の地』

この方をご存知の人はいらっしゃるでしょうか!?太平洋戦争に関連して、「海軍乙事件」と聞けば、あヽ、あれだナとお分かりの方は、この方面にかなり精通された方といえるのでは・・と思います。以前、ガイドをさせて頂き、古賀峯一氏のことに触れたとき、まさにこの反応がすぐに返って来て、全国にはやっぱり詳しい方がいるもんだなァと、付け焼刃の自らの知識が恥ずかしくなったものでした・・(笑)。
浅学を顧みずあらためて簡単に述べますと、次のごとくでしょうか。
「戦艦大和」に乗船の連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将の戦死のあとを受け、同じく「戦艦武蔵」に乗船して連合艦隊司令長官に就いたのが有田出身の古賀大将というわけで、同じく殉職されることとなります。前者の事件を「海軍甲事件」、後者を「海軍乙事件」と当時呼ばれていたようです。古賀氏のお父さんの勤務の関係で、今に残るこの住居にて誕生されたようです。
一般に、山本長官が先の大戦にもともと反対だったことはよく知られておりますが、同じく古賀長官も参戦を望んでおられなかったようで、地元出身を抜きにしても個人的に親しみを感じます。詳しくは、『おんなの有田皿山さんぽ史』でのご案内もありますので、よろしかったらご参考に。
『泉山の磁石場』周辺からこの『古賀提督生誕の地』にかけては坂になっていて、段々と下方へ下って行くこととなり、地元では「碗坂通り」と呼ばれ親しまれておりますが、そこをぬけますと、トンバイ塀が集中している、云わゆる「トンバイ塀通り」へと出ることになります。そして、この通りから西の方へ続く本通り一帯は、国の伝統的建造物として指定を受けている建物類となります。
なお、トンバイとは、特に江戸期において登り窯を築くのに使われたレンガのことで、経年劣化したそのレンガや、使い捨ての窯の道具等を赤土で塗り固め、それで塀を築いたものをトンバイ塀と呼んで、特に本通りに交差した場所や、本通りと平行している裏通り等によく見かけられます。
その伝統的建造物群の中でも、その建物の並びがちょっと珍しいモノが、次の画像のものです。

[右から順に、松本家、服部家、森永家]
それは上幸平の交差点のところにあり、右側から、明治・大正・昭和の家並みがうまく並んでいて、それぞれの時代の特徴が分かり、興味深いものとなっているようです。
山ちゃんズ、山口♂
でした。
[N.19]
一般に有田のおみやげと云えば、有田名物の“ごどうふ”があげられますが、もう一つの、あまり表に出てない名物、知る人ぞ知る名物、“陶助おこし”というお菓子を作っておられるお店が、このごく近くにあるんですョ(前田陶助堂)。
大正から昭和にかけ、かつて有田にもご当地名物の菓子類が幾つかあったようですが、残念ながら今に残っているのはこの“陶助おこし”だけのようです。誕生以来、百数十年の歴史を踏んでいるようで、何しろ衆知されてます、‘おこしの固さ’の概念を覆す、‘ビックリのやわらかさ’にその大きな特徴があります。甘党でもある私は大好きで、県外へのおみやげでは、随分お世話になっております。有田の三様式を描いた包装紙のデザインも、有田らしくて私の好みでもあります・・(笑)。
『泉山の大イチョウ』の場所から表通りに出て、少し西方へ下って行きますと、左手に何やら御影石に金文字で記された案内の石碑が見えて来ます。石碑には次のように記されています。

『元帥海軍大将 古賀峯一提督 生誕の地』

この方をご存知の人はいらっしゃるでしょうか!?太平洋戦争に関連して、「海軍乙事件」と聞けば、あヽ、あれだナとお分かりの方は、この方面にかなり精通された方といえるのでは・・と思います。以前、ガイドをさせて頂き、古賀峯一氏のことに触れたとき、まさにこの反応がすぐに返って来て、全国にはやっぱり詳しい方がいるもんだなァと、付け焼刃の自らの知識が恥ずかしくなったものでした・・(笑)。
浅学を顧みずあらためて簡単に述べますと、次のごとくでしょうか。
「戦艦大和」に乗船の連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将の戦死のあとを受け、同じく「戦艦武蔵」に乗船して連合艦隊司令長官に就いたのが有田出身の古賀大将というわけで、同じく殉職されることとなります。前者の事件を「海軍甲事件」、後者を「海軍乙事件」と当時呼ばれていたようです。古賀氏のお父さんの勤務の関係で、今に残るこの住居にて誕生されたようです。
一般に、山本長官が先の大戦にもともと反対だったことはよく知られておりますが、同じく古賀長官も参戦を望んでおられなかったようで、地元出身を抜きにしても個人的に親しみを感じます。詳しくは、『おんなの有田皿山さんぽ史』でのご案内もありますので、よろしかったらご参考に。
『泉山の磁石場』周辺からこの『古賀提督生誕の地』にかけては坂になっていて、段々と下方へ下って行くこととなり、地元では「碗坂通り」と呼ばれ親しまれておりますが、そこをぬけますと、トンバイ塀が集中している、云わゆる「トンバイ塀通り」へと出ることになります。そして、この通りから西の方へ続く本通り一帯は、国の伝統的建造物として指定を受けている建物類となります。
なお、トンバイとは、特に江戸期において登り窯を築くのに使われたレンガのことで、経年劣化したそのレンガや、使い捨ての窯の道具等を赤土で塗り固め、それで塀を築いたものをトンバイ塀と呼んで、特に本通りに交差した場所や、本通りと平行している裏通り等によく見かけられます。
その伝統的建造物群の中でも、その建物の並びがちょっと珍しいモノが、次の画像のものです。

[右から順に、松本家、服部家、森永家]
それは上幸平の交差点のところにあり、右側から、明治・大正・昭和の家並みがうまく並んでいて、それぞれの時代の特徴が分かり、興味深いものとなっているようです。
山ちゃんズ、山口♂

[N.19]