泉山の大イチョウ
こんにちは。旅の途中のガイドご案内、山ちゃんズの山口♂
です。
さて、日本磁器発祥の聖地『有田泉山磁石場』は、隣を武雄市と接するように東端に位置しておりますので、これから向かいます有田の観光は、その細長くくねった形状ゆえに“有田千軒、うなぎの寝床“と称されます東西に長い有田の町の東から、順次西へ向かって進むこととなります。
やや高台にあります磁石場から西の方角へ少し下って行きますと、右手前方向に高い一本の木が見えてまいります。そうです、それが大正15年に国指定の天然記念物となっている泉山の大イチョウです。高さ約40メートル、樹齢約1000年という巨大な古木です。
この大イチョウでよく語られるのが、ココの案内板にもありますように、江戸末、文政の大火(文政11年、1828年)による延焼を免れた、大イチョウに隣接した池田家(池田伝平窯)の‘言伝え’があります。すなわち、大イチョウは火を嫌い、大火時に風をおこして火を寄せ付けず、家を守ったというのです。何ともスゴイ、大イチョウの超絶パワーです。樹齢1000年ともなりますと(その当時は800年ですか・・・)、とても人間の力の及ぶものじゃないに違いありませんネ。(まァ、イチョウの葉が火に強いという、科学的な根拠もあるようにも聞いておりますが・・笑)

[口屋番所跡と大イチョウ]
ところで、有田災害史に残るこの「文政の大火」。有田千軒の内、その中の地区である、岩谷川内40軒、白川100軒、泉山の年木谷10軒ほどを残した、残りの850軒すべてが跡形もなく焼け出されたといいます。実はこの大火は、前代未聞という強大な台風によって岩谷川内という地区から出火したもので、同じく台風の豪雨のため河川は氾濫し洪水となり、有田内山地区(中心地区)だけで焼死、溺死した人が50人を超えていたといわれています。佐賀藩全体でのこの台風による焼失家屋が1647軒との記録があるようで、何と有田での数は、その半数以上にあたることとなり、有田での被害がいかに大きかったかが分かるように思います。 [文政の大火の数値等は、松本源次著「有田の歴史物語」より。]
[大イチョウと池田家]
余談ですが、私たちガイドは、有田へのお客様に町内の伝統的建造物のご紹介をさせて頂くときに、これらの建物の建立は江戸末期から明治、大正、昭和の建立とお伝えしています。つまり、どんなに古い建立であっても、池田伝平窯等のほんの一部を除き1828年の文政11年を遡った建物はないわけですので、もしこの大火がなかったら、もっともっと古い建物も残存してた可能性もあるわけで、いつも残念だなァ~と思います。
けれども逆に、この大火の効用もあったようです。この大火により家も職も失った工人さんたちが、有田の周辺、波佐見、三河内地区へ離散し、云わゆる有田の中心の内山地区からの“内山崩れ”が生じて、今日の大肥前窯業圏を形成する動機にもなったと、有田の史家、中島浩氣氏の見解もあるようです。或いは更には、他領でも磁器の窯が築かれ始めたので、九州の諸窯、四国の砥部、尾張の瀬戸へと広がっていったとの見方もあります・・。
ウ~ン、何といいますか、どちらがどうだとも云えず、いろいろ考えさせられますね~ェ(笑)。
(文政の大火につきましては、有田ではいろんな物語が残っているようですが、それはまた別の機会にでも・・)

[昭和初め頃の大イチョウ(「おんなの有田皿山さんぽ史」より。)]
ところで、この大イチョウが色づくのは、11月の下旬(画像で『はまだ青さが残ってますねェ~)、有田ではちょうど秋の陶磁器まつり(本年は22日~26日実施予定)』真最中の頃です。下に落ちた黄色いイチョウの葉が重なって、黄色いじゅうたんのようになった上を歩くのは、何だか贅沢感を味わえますョ~、以前私も歩いてみましたが・・気持ちよかったデス・・。 笑)
[皿山代官の「覚」立て札]
実はここのイチョウの巨木がある手前のところは、江戸期に泉山の『口屋番所』の跡となっていて、その内の『上(かみ)の番所』があったところです。東西に長い有田には、当時、『上の番所』と、ずっと西方に『下(しも)の番所』がありました。そこは代官所の支配下にあり、主に人(技術)と物(磁石と製品)の出入りを厳重に監視していたようです。
今は当時の雰囲気を偲ぶ風情で記された「覚」の立て札と番所跡にそれを感じることが出来ます。
[N.18]

さて、日本磁器発祥の聖地『有田泉山磁石場』は、隣を武雄市と接するように東端に位置しておりますので、これから向かいます有田の観光は、その細長くくねった形状ゆえに“有田千軒、うなぎの寝床“と称されます東西に長い有田の町の東から、順次西へ向かって進むこととなります。

やや高台にあります磁石場から西の方角へ少し下って行きますと、右手前方向に高い一本の木が見えてまいります。そうです、それが大正15年に国指定の天然記念物となっている泉山の大イチョウです。高さ約40メートル、樹齢約1000年という巨大な古木です。
この大イチョウでよく語られるのが、ココの案内板にもありますように、江戸末、文政の大火(文政11年、1828年)による延焼を免れた、大イチョウに隣接した池田家(池田伝平窯)の‘言伝え’があります。すなわち、大イチョウは火を嫌い、大火時に風をおこして火を寄せ付けず、家を守ったというのです。何ともスゴイ、大イチョウの超絶パワーです。樹齢1000年ともなりますと(その当時は800年ですか・・・)、とても人間の力の及ぶものじゃないに違いありませんネ。(まァ、イチョウの葉が火に強いという、科学的な根拠もあるようにも聞いておりますが・・笑)

[口屋番所跡と大イチョウ]
ところで、有田災害史に残るこの「文政の大火」。有田千軒の内、その中の地区である、岩谷川内40軒、白川100軒、泉山の年木谷10軒ほどを残した、残りの850軒すべてが跡形もなく焼け出されたといいます。実はこの大火は、前代未聞という強大な台風によって岩谷川内という地区から出火したもので、同じく台風の豪雨のため河川は氾濫し洪水となり、有田内山地区(中心地区)だけで焼死、溺死した人が50人を超えていたといわれています。佐賀藩全体でのこの台風による焼失家屋が1647軒との記録があるようで、何と有田での数は、その半数以上にあたることとなり、有田での被害がいかに大きかったかが分かるように思います。 [文政の大火の数値等は、松本源次著「有田の歴史物語」より。]

[大イチョウと池田家]
余談ですが、私たちガイドは、有田へのお客様に町内の伝統的建造物のご紹介をさせて頂くときに、これらの建物の建立は江戸末期から明治、大正、昭和の建立とお伝えしています。つまり、どんなに古い建立であっても、池田伝平窯等のほんの一部を除き1828年の文政11年を遡った建物はないわけですので、もしこの大火がなかったら、もっともっと古い建物も残存してた可能性もあるわけで、いつも残念だなァ~と思います。
けれども逆に、この大火の効用もあったようです。この大火により家も職も失った工人さんたちが、有田の周辺、波佐見、三河内地区へ離散し、云わゆる有田の中心の内山地区からの“内山崩れ”が生じて、今日の大肥前窯業圏を形成する動機にもなったと、有田の史家、中島浩氣氏の見解もあるようです。或いは更には、他領でも磁器の窯が築かれ始めたので、九州の諸窯、四国の砥部、尾張の瀬戸へと広がっていったとの見方もあります・・。
ウ~ン、何といいますか、どちらがどうだとも云えず、いろいろ考えさせられますね~ェ(笑)。
(文政の大火につきましては、有田ではいろんな物語が残っているようですが、それはまた別の機会にでも・・)

[昭和初め頃の大イチョウ(「おんなの有田皿山さんぽ史」より。)]
ところで、この大イチョウが色づくのは、11月の下旬(画像で『はまだ青さが残ってますねェ~)、有田ではちょうど秋の陶磁器まつり(本年は22日~26日実施予定)』真最中の頃です。下に落ちた黄色いイチョウの葉が重なって、黄色いじゅうたんのようになった上を歩くのは、何だか贅沢感を味わえますョ~、以前私も歩いてみましたが・・気持ちよかったデス・・。 笑)

[皿山代官の「覚」立て札]
実はここのイチョウの巨木がある手前のところは、江戸期に泉山の『口屋番所』の跡となっていて、その内の『上(かみ)の番所』があったところです。東西に長い有田には、当時、『上の番所』と、ずっと西方に『下(しも)の番所』がありました。そこは代官所の支配下にあり、主に人(技術)と物(磁石と製品)の出入りを厳重に監視していたようです。
今は当時の雰囲気を偲ぶ風情で記された「覚」の立て札と番所跡にそれを感じることが出来ます。
[N.18]