― 九州陶磁文化館 Ⅲ ―
台風一過の有田、
まだ少し天候が荒れていて、ココ有田駅でもその影響で電車の乱れがまだまだ残っているようです。構内にも時折突風が吹き込んでいましたが、今はヤヤ落ち着いて来てはいるようです。でも、せっかくの連休を利用して遠くからお見えのお客様、本当にお気の毒だなァと思いますし、早く天候が回復してくれたらと願うばかりです。
さてさて、旅の途中のガイドご案内、山ちゃんズの山口♂
です、こんにちは。
かく、見てまいりました九州陶磁文化館には、館所蔵あるいは寄贈を受けられたコレクション等の陶磁器について、多くの図録、冊子等があり販売もされています。もちろん他の美術館等のいずこでも書籍等の販売はありますが、ここ九陶のそれは、それほど高価でもなく、お手ごろな値段だと個人的には思いますしお薦めしたいと思います。
様々な内容の詳細なご理解は、これらの書籍をご覧頂くこととしまして・・・

[充実した九陶の書籍類]
有田にお見え頂く前に、これだけはぜひ!!という [有田焼のイロハ] を幾つか挙げ、大胆にも九陶の旅を終えたいと思います・(笑)。
内容は基本中の基本、でも、へ~~~ェ!!もあるカモですョ・・(笑)。
[有田焼のイロハ]
〇有田焼はその様式から、大きく古伊万里様式、柿右衛門様式、鍋島様式の三様式に分かれる。
古伊万里様式・・・江戸期に有田の陶工が始めた、師や範を朝鮮や中国に求めた、自由奔放な絵柄のやきもの。17世紀半ばより、西欧等への輸出もなされた。
現代においては、ずっと広義には、佐賀県有田町で製作されている焼物はこの系譜に連なるものと云える。
柿右衛門様式・・・1640年代(江戸初期)、焼物に色絵を施すことに初めて初代柿右衛門が成功し、17世紀後半、濁し手等の独自な技法や日本的様式美を確立し、西欧等へも輸出された、日本初世界ブランド(Kakiemon)
歴史的に観れば、準御用窯的クラスで、江戸期の参勤交代時には、藩主とのお目見えが許されていた。
現代においては、まさに柿右衛門窯での作品がこれにあたる。
鍋島様式 ・・・江戸期、有田の陶工たちの中より高い技術を有する者たちを、佐賀鍋島藩が伊万里の大川内山に集め、将軍、朝廷、有力大名等への献上、贈答のためだけに最高の技術を結集し製作した焼物の様式。
現代の有田では、鍋島藩の御用赤絵師の系譜をもつ今泉今衛門窯がその代表である。
また、明治以降、藩解体後に伊万里市大川内山で、その様式に根ざした焼物が各窯により制作されている。その現代の一般的通称は伊万里焼。
(三様式は、九陶の「九州の古陶磁」(第3展示室)で確認出来ますョ。)
ということで、あなたが今ソコに所持されている、その白地に色絵が施された有田焼は、果たしてして一体どれに属してるでしょうか・・・分かりますか・・・!?(笑)。
ご自分が購入なさろうとしてるのが、どの種類なのか・・・、またお買い物の楽しみも増えるカモですネ!!。
〇有田は日本磁器の発祥の地です。
簡単に云えば、陶器は土が原料の器。磁器は石(白磁)が原料の器。
1610年代、日本で初めて有田でその石を原料としてやきものが焼かれ始めました。
1600年代半ばからほぼ100年の間、伊万里焼としてヨーロッパ等へ輸出されました。
その間、日本の磁器焼成から遅れること100年後の1710年代、有田等の影響を受けながらドイツのマイセンでヨーロッパ最初の磁器が焼かれました。
つまり、1610年代(江戸初期)までは、日本に磁器はあったんですがそれは全て外来もの(中国、朝鮮産が主)だったわけで、国産1号が当地有田で焼かれたということ、そしてヨーロッパ第1号の磁器は、有田より一世紀後にようやく始まったということです。
〇古伊万里のふるさとは有田です。
古伊万里の源流を求めて伊万里へ降り立った方もいます。でもそこは江戸時代に有田で作られた焼物の出荷港です。出荷港の名にちなみ当時伊万里焼と呼ばれていたわけですが、もともと有田がふるさとというわけです。
つまりは、古伊万里や初期伊万里とかの名前で呼ばれたりする古い焼物の、その窯跡を訪ねる場合、それは有田の地に求めねばならないということになるワケです。
まァ、考えてみれば不思議な気がしますよネ~。当初から有田の地に港があったなら、当然江戸期においても有田焼、現代ではその呼び名は古有田!?と呼ばれていたはずでしょうが・・(笑)。
伊万里焼と呼ばれていた有田産の焼き物が本来の名を名乗るようになるのは、明治30年鉄道敷設以降のことと云えるのでしょうか・・・。
[N.14]

さてさて、旅の途中のガイドご案内、山ちゃんズの山口♂

かく、見てまいりました九州陶磁文化館には、館所蔵あるいは寄贈を受けられたコレクション等の陶磁器について、多くの図録、冊子等があり販売もされています。もちろん他の美術館等のいずこでも書籍等の販売はありますが、ここ九陶のそれは、それほど高価でもなく、お手ごろな値段だと個人的には思いますしお薦めしたいと思います。
様々な内容の詳細なご理解は、これらの書籍をご覧頂くこととしまして・・・

[充実した九陶の書籍類]
有田にお見え頂く前に、これだけはぜひ!!という [有田焼のイロハ] を幾つか挙げ、大胆にも九陶の旅を終えたいと思います・(笑)。
内容は基本中の基本、でも、へ~~~ェ!!もあるカモですョ・・(笑)。
[有田焼のイロハ]
〇有田焼はその様式から、大きく古伊万里様式、柿右衛門様式、鍋島様式の三様式に分かれる。
古伊万里様式・・・江戸期に有田の陶工が始めた、師や範を朝鮮や中国に求めた、自由奔放な絵柄のやきもの。17世紀半ばより、西欧等への輸出もなされた。
現代においては、ずっと広義には、佐賀県有田町で製作されている焼物はこの系譜に連なるものと云える。
柿右衛門様式・・・1640年代(江戸初期)、焼物に色絵を施すことに初めて初代柿右衛門が成功し、17世紀後半、濁し手等の独自な技法や日本的様式美を確立し、西欧等へも輸出された、日本初世界ブランド(Kakiemon)
歴史的に観れば、準御用窯的クラスで、江戸期の参勤交代時には、藩主とのお目見えが許されていた。
現代においては、まさに柿右衛門窯での作品がこれにあたる。
鍋島様式 ・・・江戸期、有田の陶工たちの中より高い技術を有する者たちを、佐賀鍋島藩が伊万里の大川内山に集め、将軍、朝廷、有力大名等への献上、贈答のためだけに最高の技術を結集し製作した焼物の様式。
現代の有田では、鍋島藩の御用赤絵師の系譜をもつ今泉今衛門窯がその代表である。
また、明治以降、藩解体後に伊万里市大川内山で、その様式に根ざした焼物が各窯により制作されている。その現代の一般的通称は伊万里焼。
(三様式は、九陶の「九州の古陶磁」(第3展示室)で確認出来ますョ。)
ということで、あなたが今ソコに所持されている、その白地に色絵が施された有田焼は、果たしてして一体どれに属してるでしょうか・・・分かりますか・・・!?(笑)。
ご自分が購入なさろうとしてるのが、どの種類なのか・・・、またお買い物の楽しみも増えるカモですネ!!。
〇有田は日本磁器の発祥の地です。
簡単に云えば、陶器は土が原料の器。磁器は石(白磁)が原料の器。
1610年代、日本で初めて有田でその石を原料としてやきものが焼かれ始めました。
1600年代半ばからほぼ100年の間、伊万里焼としてヨーロッパ等へ輸出されました。
その間、日本の磁器焼成から遅れること100年後の1710年代、有田等の影響を受けながらドイツのマイセンでヨーロッパ最初の磁器が焼かれました。
つまり、1610年代(江戸初期)までは、日本に磁器はあったんですがそれは全て外来もの(中国、朝鮮産が主)だったわけで、国産1号が当地有田で焼かれたということ、そしてヨーロッパ第1号の磁器は、有田より一世紀後にようやく始まったということです。
〇古伊万里のふるさとは有田です。
古伊万里の源流を求めて伊万里へ降り立った方もいます。でもそこは江戸時代に有田で作られた焼物の出荷港です。出荷港の名にちなみ当時伊万里焼と呼ばれていたわけですが、もともと有田がふるさとというわけです。
つまりは、古伊万里や初期伊万里とかの名前で呼ばれたりする古い焼物の、その窯跡を訪ねる場合、それは有田の地に求めねばならないということになるワケです。
まァ、考えてみれば不思議な気がしますよネ~。当初から有田の地に港があったなら、当然江戸期においても有田焼、現代ではその呼び名は古有田!?と呼ばれていたはずでしょうが・・(笑)。
伊万里焼と呼ばれていた有田産の焼き物が本来の名を名乗るようになるのは、明治30年鉄道敷設以降のことと云えるのでしょうか・・・。
[N.14]