目的で探す

有田の時間

目に鱗、一見の価値 !!。磁器生産工業団地「内山」の特異性満喫。『そうだったんだ!有田内山まるわかり』 展、開催中!! 

2022年02月11日

有田観光協会 at 15:38  | Comments(0)
 
 

 目に鱗、一見の価値 !!。磁器生産工業団地「内山」の特異性満喫。『そうだったんだ!有田内山まるわかり』 展、開催中!! 


 
 
 
 現在開催中の上記展覧会を有田町歴史民俗資料館へ先日観に行きました。中心である有田内山地区の歴史、文化、建築物等の変遷を、平易かつ丁寧にひも解き、古い写真等も含め説明が尽くされ、極めて興味をそそる展覧会だと感じました。
 周知のように、有田内山地区は平成3年(1991年)に国の重要伝統的建造物群保存地区(伝建地区)に佐賀県内で初めて選定され、本年度で30周年を迎え、それを記念しての今回の展示となっていました。
 
 
 そもそも、有田内山地区がどのようにして生まれ、江戸期や、それ以降のそこでの人々はどんな暮らしをしていたのか。全国的な一般的な江戸期等の暮らしを知ることはあっても、自分たちに身近な、この有田の地区での当時のライフスタイルを知り理解することはなかなか稀なものです。ところが、今回の展示は、平易ではありながら明確に説明が尽くされ、当時の有田の状況がかいま見えてきて、興味が尽きることなく少なからず興奮を覚えてしまいました。
 
 
 例えば地名で、泉山という地名があります。言わずもがなの日本で初めての良質の陶石が大量に発見された泉山磁石場を擁する場所ですが、1650年代頃までは歳木山(としきやま)と呼ばれていたようです。なぜ名前が変わったのか・・?
 或いは、江戸期、有田皿山の人は飯碗には陶磁器は使わなかったといいます。どうしてなのか?。さらには、内山地区では江戸期、川の中に大きな石を並べただけの「ぴょんぴょん橋」や、板張りの仮設橋である「ゆらゆら橋」と呼ばれるものが作られていて、安政6年(1859年)に作成された『松浦郡有田郷図』にも見られますが、それはいかなる理由からか? 有田の内山地区には偶然、明治、大正、昭和の建物が並んでいる箇所があり、それを見ると、その世代の身長の高さに応じて軒の高さが自然に建造されてたのだろうと考えていましたら、どうやらそれだけではなく、今回はっきりした根拠があったことも発見でした。本当に、目から鱗と実感させられました。もちろん、伝建地区選定後の30年間の建物の変遷、修築等の努力にも興味を抱かされ、その努力に頭が下がります。
 展示されてる写真の中に、大正13年のおくんち時、内山大樽の手塚家前で甲冑に身を包んだ子供たちの武者姿の列に目がとまったとき、他に比肩されぬようなその写真の中の本物感に、いかに当時この地区では、子供たちにまで質の高い暮らしが及び、営まれていただろうことかと想像されました。そういえば、『鍋島直正公伝』にあるそうですが、「有田・伊万里両郷は、佐賀領内において現銀収入をもたらす唯一の商工業地帯で、佐賀領中にて都府というべき商工業繁盛の地は有田・伊万里あるのみ」との言葉を想起させます。
 
 
 かつて江戸期の始め、田中村と呼ばれ家が数軒しかなかったという、この内山地区。資料館長さんのお話では、泉山磁石場の発見により、そこから西へ磁器生産に特化した工業団地を成立させていったというこの有田内山地区。400年以上にわたり磁器を作り続け、今なお同じ産業を現役で育みながら保存されいる、全国的にも極めて稀な地区。しかも江戸期の詳細な記載の『松浦郡有田郷図』(佐賀県立図書館蔵)の残存。いかに稀有で貴重な地区を我々有田は有しているか、この展示はあらためて再確認出来る良い機会ではないかと思います。
 
 
 この度4月10日までの展示延長がなされるそうですので、有田在住の方等でご興味のある方はぜひ歴史民俗資料館へ足を運ばれたらいかがかナと思います。なお、関連の冊子も作成、販売されてもいるようです。




 
 目に鱗、一見の価値 !!。磁器生産工業団地「内山」の特異性満喫。『そうだったんだ!有田内山まるわかり』 展、開催中!! 
[安政6年『松浦郡有田郷図』一部(県立図書館蔵)]



                                                                             

                                             (山)

 




上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。