“Find something you love to do ,
2025年03月24日
有田観光協会 at 16:38
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and you'll never have to work a day in your life.”

本年初頭、伊万里の大川内山の窯元でつくる伊万里鍋島焼協同組合は、組合加盟の窯元制作のやきものの呼び方を「鍋島焼」で統一されたとの新聞報道がありました。これにより、伊万里焼とか伊万里鍋島焼とか様々呼ばれていた呼称を「鍋島焼」と一つにされるということで、これを知ったとき、今後とても分かりやすくなるんじゃないかと私はとても嬉しく思いました。それにより、江戸期を通じて日本磁器の最高峰として磁器が将軍等に献上、贈答されていた歴史的事実、それを継承している伊万里地域のやきものであるとのブランド価値を高めるためであることは明確ではありますが、ここ有田のやきものの歴史を語る上でも、よりスッキリとするのではないかと思ったからでした。
長く観光案内所で有田のご案内をする中で、江戸当時、海外への唯一の運搬手段であった船により隣接した伊万里港から焼き物が出荷されたため、江戸期に有田で焼かれた焼き物がその当時「伊万里(焼)」の名で呼ばれているということをお客さまにご説明し、それが今は「古伊万里」の名で残されているんですよと繰り返しご案内してきたところでありました。今でもそうですが、国内に限らず外国の方でも、云わゆる「古伊万里(オールドイマリ)」の故郷、生産地が、その名が残るので「伊万里市」の大川内山と思われ、そちらへとお出かけになるということが少なからずあります。その両地のやきものの特質、歴史の違いをご説明するのにいつも多くの時間を割いていたので、私のご案内時間はついつい長くなっていたものでした。そういう私も、本当に恥ずかしながら、後年になって両地の焼き物の違いを知ったので偉いことは何にも云えません。ただ、知った以上は、正しくお伝えしていく必要をとても感じていたのでした。
今後、伊万里焼が「鍋島焼」と呼称もされることで、幾らかは誤解も解消されるのではないかと期待しています。とは言いましても、やはり完全に誤解が無くなることはなかなか困難とは思いますので、逆に有田でも発信がより必要かとも思います。例えば、『古伊万里の故郷(ふるさと)、有田』。“日本磁器発祥の地、有田”に加え『日本の白磁の誕生地、有田』とか、『江戸初め世界へとび出した有田焼(世界の有田焼)』、或いは、『日本初世界のブランド、KAKIEMON』等々。
実はこれらは、これまでの私のご案内の中で、ずっとお客様にお伝えしてきたことでもありましたが、有田焼を伊万里の「鍋島焼」と対比させるために、これに類したキャッチフレーズも、今後、より積極的に有田から発信していくことも必要じゃないかと考えます。いずれにしましても、有田焼の特質として、またお伝えすべき基本の基として、私はこのことを最もお伝えせねばならないこととして、これまで発奮して来たのではありました。

案内所でのご案内に少し触れましたので、もう少しこれまでの案内所の状況を述べてみたいと思います。
私が初めて有田駅観光案内所に出たのはちょうど東日本大震災の一年後でした。そうです、そんなに前なのです。着任当時の有田駅構内には案内所の他にキヨスクがあり、長椅子等も置いてありました。震災直後でもあり、お客様も日本からが多かったように思います。しばらく後、外国からのお客さまもチラホラありましたが、ほとんどが東アジア系、つまり台湾、韓国からが多く、一方、今のように中国からはほとんど無くまれでした。震災の影響が落ちつきはじめた以降は、より以上に台湾、韓国から、そして東南アジアからもボチボチ見えるようになりました。そして、その後、例の大型クルーズ船等により、中国からの団体のお客様がピークに達した頃は、駅にもどんどん中国本土からのお客様も増加してきました。私が初めて案内所に立ったとき、実は、大して外国からのお客さまについては想定していませんでした。日本人対象の有田の観光ガイドでもありましたし、特に問題ないだろうと思っておりましたが、驚きました。想定以上に外国からのお客様があるのです。これは10年以上も前のことだったと思いますが、あるとき、こういうことがありました。駅構内に幾つか置かれていた長椅子の一つの片隅に、かすりのような着物を召した70歳を超えた位のおばさんが、背中を丸くしてちょこんと座っておられました。もう忘れましたが、気候のあいさつか何かで話しかけたかと思いますが、キョトンとされてます。どちらからですかとか、またお尋ねしたように思いますが、やはり無言。ちょっと間をおき、突然発された言葉が、「タイワン」。てっきり近所のおばさんが、ちょっとひと休みで座っていらっしゃるとばかり思っておりました。これが有田でした。
駅構内では、最初の頃は日本でもそうであるように、外国からのお客さまはそれぞれの国の云わゆる『観光本』をお開きになり、有田のココへ行きたい・・、といった感じでお尋ねになっていました。が、コロナ期前の数年位前の頃からは、特に韓国、台湾、来客が増加していた中国等は、日本ではあまり見たことがないような、大型の『スマートフォン』、や『タブレット端末』を開いてお見せになり、有田の希望の場所をお尋ねになるようになりました。その後はスマホ等のマップ機能により、今日では、用意している紙製の”散策マップ”は不要ですと、お受け取りにならないことも随分多くなりました。本当にこの間の変化の速さには驚かされています。
ある時期、国どうしの問題で中国や韓国からの入国が滞り、有田もその影響を大きく受けました。特にあれほど多くの来客がありました韓国から全く見えなくなったこともありました。有田焼の開祖と云われる朝鮮の「李参平」を擁した町、有田にしても同様なのでした。政治の影響力の大きさをつくづく感じたものでした。政治問題が徐々に落ち着きを見せ始め、だんだんと外客も回復した頃は、東アジア系の人に加え、西洋からの外客も次第に増加して、今日に至っては西洋の方を町内で見かけない日はないほど増加しているのが現状です。こういう数の西洋からの外客を見かけるということも過去10年間、有田ではありませんでした。
つくづく思いますのは、たとえ国どうしが不幸にも険悪になったとしましても、過去にそれぞれの国民の中に一旦自由な往来がありましたら、きっといつかは改善されると思ったところでした。自由な往来が永遠に続くよう、政治に携わる方も方も最善を尽くして頂きたいものです。
それにしても、コロナが全盛の頃は、国内客も含めて来客が皆無だったことはご周知のとおりです。東京オリンピック気運もあり、有田への外客も年を追うごとに増加していた矢先でしたので、そのコロナですべて振り出しに戻った感じでした。現在コロナ以前の状況にほぼ戻りつつあるようです。コロナ禍数年前に駅構内にありました「有田駅観光案内所」は、「キルンアリタ観光案内所」として、駅南の登り窯をイメージした赤い建物へ移動し現在に至っております。今後ますます国内はもとより外国からも、より多くのお客さまが有田へお見えになられることを願ってやみません。
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実は今月末をもちまして、わたくし、当案内所を退かさせて頂くことになりました。これまで、こちらの案内所にお立ち寄り頂きました皆様、観光関連の皆様、そして、同僚でながい間お世話になりました中尾さん、また、もしこの拙いブログを時おり覗いて頂きました方がおありでしたらば、ともに本当にありがとうございました。甚だ不充分なご案内やおつき合い、マイブログ等になってたのではないかと、今となっては大層心苦しく思っております。
有田は本当に素晴らしい町だと思います。ともすれば地元に住んでいればそのことに気づかない、それを懸念します。でも外部からの評価はきちんとなされております。有田の町並みは『国の重要伝統的建造物群保存地区』に県で最初に指定され、有田を中心とした二町六市は国により「日本磁器のふるさと」として『日本遺産』にも認定されおります。さらに最も驚くべきは、有田の町の伝統的景観全体が、日本の「将来に残したい町」として、日本イコモス(イコモスは、世界遺産を審査する世界的機関)により、全国では20か所のみ選定された『20世紀遺産』に選ばれているという事実です。現下のやきもの産業界には様々な問題がありますが、ただそういうベースの町に立脚しているのが「わが町有田」であり「有田焼」であることを、少なくとも地元の私たちは自覚しておくことが肝要ではないかなと強く思います。
有田が好きで、そして人と話しご案内するのが大好きで観光ガイドとなり、そういう意味では、この案内所でも幸せな「天職」を全うさせて頂きました。今、案内所への日々のご来客の4割位が外国からではないかなと感じられるほどです。毎月30か国以上の国々からここ有田へのご来客があっています。いかに有田の町と有田焼が、やはり世界的知名度とブランド価値を有しているか、まざまざと見せつけられておりました。そういうインバウンドの大きな変動の中で、貴重なそしてとても楽しい経験をさせて頂きましたことは、大変ありがたく幸せなことだったと心から感謝しております。あっという間の13年間でした。この場にて皆様、関係者の方々に重ねてお礼を申し述べさせて頂きたいと思います。
心中に去来するのは、私の好きな冒頭、次の言葉です。それらを身に染みて感じながら、私の個人ブログは閉じさせて頂きたいと思います。永い間本当にありがとうございました。
“ 好きなことを見つけなさい。するとあなたは一日だって働く必要がなくなるのです。”

キルンアリタ観光案内所 山口